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第133回

2019.12.14

13:30~16:45

第一部 発  表
 高井 寛
 存在できることの行為論

  ――ハイデガー行為論を理解する

 ハイデガー『存在と時間』には、行為についてのよく分からない議論が存在する。
 一方でハイデガーは、私たちの一つ一つの行為が行為として導かれているための条件として、私たちが「自己の可能性」を「企投」していることを挙げる。この「可能性の企投(Entwurf)」という発想は、しばしば「コミットメント」や「実践的アイデンティティ」のような概念の助けを借りて、解釈者たちによって解釈されてきた。そのとき、ハイデガーの議論は、ある存在者が行為者であるとはどのようなことかを考えるにあたって、その存在者が有する特定の心的作用に訴えるタイプの現代の行為者性論と、相性がよいものとなる。その心的作用とは、例えば計画の設定、一階の欲求に対する二階の欲求、高階からの欲求の評価・賛同などである。
 他方でしかし、ハイデガーは、私たちは自分がどこへと自らを「企投」しているのか、それどころか自分が「誰」であるのか、よく分かっていないとも述べている。大衆批判論としても読まれる〈ひと(das Man)〉についての議論は、そのことを述べるためにある。そうだとすれば、ハイデガーの行為論はよく分からないものとなる。なぜなら、そのように私たちが自らの「企投」の内実を理解していないのだとすれば、そこに「(行為者自身による)コミットメント」や「実践的アイデンティティ」を見出すことはできないからである。あるいは少なくとも、先に見たような特定の(高度な)心的作用に訴えるタイプの行為者性理論を、ハイデガーにそのまま期待することはできないだろう。
 本発表は、このよく分からないハイデガーの行為論(行為者性理論)を理解することを目指す。そのための鍵となるのは、ハイデガーが「企投」を説明する際に持ち出す、「存在できること(Seinkönnen)」の概念である。すなわち、ハイデガーの行為論は「存在できることの行為論」である。そしてそのように解釈することによって、『存在と時間』の議論は理解可能なものとなり、また、それが私たちの行為を(先に挙げたような現代の論者よりも)よりよく説明できるものとなっていることが明らかとなる。

【参考文献】

  • ハイデガー『存在と時間』

【日時】
2019.12.14(土)

13:30~16:45

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【場所】

文京区 湯島地域活動センター

多目的室

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《会場のご案内》
・「文京区 湯島地域活動センター」は、東大本郷キャンパスに隣接する文京区の施設です。
・徒歩◆丸ノ内線本郷三丁目駅から徒歩7分、千代田線湯島駅から徒歩10分程度です。
・バス◆JR・丸ノ内線御茶ノ水駅(バス5番乗り場)から、都バス学07系統で、「竜岡門」バス停下車すぐです。
・自動ドアを入り、まっすぐ進んで突き当りが「多目的室」です。

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※参加無料

※皆様ご自由にご参加ください。

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​【関連リンク】

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第119回

​■第118回

第二部 発  表
 栁田 詩織
 シラーによるカント倫理学批判再考

 シラーが小論「優美と品位について」においてカント倫理学を厳格主義と指摘したことはよく知られている。そしてこれはカント倫理学に対する本質的な批判として、様々な仕方で参照されてきた。特に、シラーはカントを誤解していたか、或いはその重要な点を見逃してしまっているという反論が、カント研究の側からしばしばなされてきた。
 しかしこのような反論でシラーの批判を退けることは果たして妥当なのだろうか。というのもシラーはある段階まではカントの言葉遣いを引き継いでおり、カント倫理学の構図をも認めるとまで述べている。そしてその上で、みずからの思考を展開していったように思われるからである。
 以上を踏まえて本発表では上記の「優美と品位について」を主に取り上げ、シラーの道徳論をまず考察する。その上でカントへの接近と離反について、美と道徳の関係に着目して、改めて検討してみたい。

【参考文献】

  • シラー「優美と品位について」

  • カント『実践理性批判』『たんなる理性の限界内の宗教』

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