第127回
2018.12.15
13:30~16:50
第一部 発 表
高井 寛
死はなぜ私たちを恐れさせるのか
――ハイデガー『存在と時間』が与える視座――
死は恐ろしいものである、と私たちは考えている。しかしエピクロスに帰せられてきた証明によれば、死は恐ろしいものではない。何かが恐れるに値するのは、それがその人にとって悪いものだからだが、死のまさにそのときその人は存在しなくなるのだから、死の悪がその人を襲う機会はない。よって死すべき者にとって死は悪いものではなく、死は恐れるに値しない。こうした考えに立てば、死を恐れるのは不合理なこととなる。この証明は、多くの人にとってにわかには受け入れがたいものである。実際、現在にいたるまで(とりわけ現在では分析的実存哲学の領域を主戦場に)この証明に対する反論や再反論の応酬は続いている。
本発表が試みるのは、そうした「死を前にした恐れ」に関する哲学的な問題に対して独特のアプローチをとったマルティン・ハイデガーの議論を読み解くことを通じて、「死を恐れる」という情動をめぐる上記の論争に一定の寄与を果たすことである。ハイデガーの議論が独特なのは、かれが「恐れ」と「不安」を区別し、死に対して私たちがとる情動的な態度は「恐れ」ではなく「不安」であるとした点にある。これは、単に問題の所在をずらすだけのものではなく、死を恐れるという私たちの情動を合理的に説明するためのよりよい哲学的回答となっている。本発表ではそのことを論じるつもりである。
【参考文献】
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ハイデガー『存在と時間』
第二部 発 表
山野 弘樹
現象学的解釈学の系譜——リクール『生きた隠喩』を中心に
フランスの哲学者ポール・リクール(1913-2005)は、『時間と物語』(1983-85)や『他としての自己自身』(1990)等の解釈学の大著を世に生み出した。今日、リクール哲学の重要性に関しては幅広く認識され始めており、特に「自己」や「歴史」をめぐる思索に関して、専門的ならびに学際的な関心が大きく高まっている。しかし、中期リクールの主著の一つである『生きた隠喩』(1975)に関しては、いまだ国内外含めて研究が進んでいるとは言えず、リクール研究における一つの盲点となっている。そこで本発表においては、ハイデガーによる存在論化、およびガダマーによる定式化の刻印を受ける「現象学的解釈学」の系譜に『生きた隠喩』を位置づけることを通して、本書に秘められた解釈学としての射程とその意義を明らかにすることを試みる。さらに本発表は同時に、『生きた隠喩』における議論を、後年の大著『時間と物語』に接続することを通して、リクール哲学における『生きた隠喩』の位置づけに対しても再評価を打ち立てることを試みる。
【参考文献】
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Gadamer, Hans-Georg, Wahrheit und Methode, Tübingen, J. C. B. Mohr, 1960.
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Heidegger, Martin, Sein und Zeit, Tübingen, Niemeyer, 1927.
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Ricœur, Paul, La Métaphore vive, Paris, Seuil, 1975.
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Ricœur, Paul, Interpretation Theory : Discourse and the Surplus of Meaning, Texas Christian University Press, 1976.
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Ricœur, Paul, Temps et Récit, t.1 : L’intrigue et récit historique, Paris, Seuil, 1983.
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Ricœur, Paul, Temps et Récit, t.3 : Le temps raconté, Paris, Seuil[Point Essais], 1985.
【日時】
2018.12.15(土)
13:30~16:50
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【場所】
《会場のご案内》
東大本郷キャンパスの法文二号館へは、正門をお使いいただくのが便利です。
教員談話室へは、アーケードの内側にある入り口からしか入れません。二号館建物中央部のアーケードからお入り下さい。
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※参加無料
※皆様ご自由にご参加ください。
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【関連リンク】
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