第134回
2020.2.22
13:30~16:45
第一部 発 表
中原 真祐子
「私」はどうして自由なのか
――ベルクソンの自由の条件を考える
ベルクソンは、人のなす自由な行いには度合いがあると述べ、そのもっとも強い度合いの自由は、人格の全体を表現する行為であると論じている。その自由論の解釈をめぐっては、これまでも多くの研究が重ねられてきており、本発表もそうした研究に連なるひとつの試みである。
今回は、「人格全体の表現」としてあらわれてくるとされる自由行為の成立の条件として、彼が何を考えていたのかを明らかにすることをめざす。まず、自由論の解釈の蓄積を整理した上で、自由論が主題的に展開される『意識に直接与えられたものについての試論』において、ベルクソンが強い度合いの自由として論じている諸例を検討する。それらの例を検討すると、そうすることが「初めから分かっている」ことが強調されていることがみえてくるはずである。彼は、人の行為について、最初からそうするしかないと分かっており、ほかのしかたではやりようのない行為を、とりわけて自由な行為だと論じているのである。なぜそうした行為が、もっとも強い自由だと言われるのか。本発表は、ベルクソンが自由行為の成立の条件として考えていたことを明らかにすることを通じて、その問いに答えを与えてみたい。
【参考文献】
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アンリ・ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』
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同『物質と記憶』
(それぞれ、数種類の邦訳があります。)
第二部 発 表
冨岡 薫
ケアの倫理における「依存」概念とそれに基づく展開可能性(仮)
1982年、キャロル・ギリガン『もうひとつの声』において誕生したケアの倫理は、今まで倫理学においてあまり顧みられることのなかったケア=依存関係に光を当て、そこを起点として理論を構築しようとする倫理学である。従来のケアの倫理学者の多くは、親密な母子関係に特に着目しながら、ケアという営みを詳らかにし、その発展的な可能性を模索してきた。
しかし、彼女らの著作を精査すると、まず初めに原初的な依存関係に着眼し、そこからケアの重要性を論じるというプロットは同じでありながらも、その元となる依存概念の内実には、少しばかり”ズレ”が生じている。これは、依存dependence概念と、それに対立する「自立independence」概念との関係性をいかにして捉えているのかが、論者によって異なっているからである。そしてこのズレが、ケアの倫理を展開する際の理論の多様性を生み出す一つの要因ともなっているようである。
本発表では、主要なケアの倫理学者たちの主張に基づき、依存概念と自立概念との関係性を明らかにしながら、今までケアの倫理において当たり前のように前提とされてきた依存概念を腑分けしていく。そして、少しずつ異なる依存概念が、ケアの倫理の展開においてどのようなアプローチの差異を生み出しているのかを述べる。また、そのような依存概念が、ケアの倫理において、他の概念、例えば「自律autonomy」の価値をいかにして位置付けうるのかを展望していく。
【参考文献】
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Kittay Eva Feder, Love's Labor: Essays on Women, Equality, and Dependency, Routledge, 1999.〔=キテイ・エヴァ・フェダー、『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』(訳:岡野八代、牟田和恵)、白澤社、2010年。〕
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Noddings Nel, Starting at Home: Caring and Social Policy, University of California Press, 2002.
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岡野八代、『フェミニズムの政治学―ケアの倫理をグローバル社会へ―』、みすず書房、2012年。
【日時】
2020.2.22(土)
13:30~16:45
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【場所】
《会場のご案内》
・「文京区 湯島地域活動センター」は、東大本郷キャンパスに隣接する文京区の施設です。
・徒歩◆丸ノ内線本郷三丁目駅から徒歩7分、千代田線湯島駅から徒歩10分程度です。
・バス◆JR・丸ノ内線御茶ノ水駅(バス5番乗り場)から、都バス学07系統で、「竜岡門」バス停下車すぐです。
・自動ドアを入り、まっすぐ進んで突き当りが「多目的室」です。
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※参加無料
※皆様ご自由にご参加ください。
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