13:30~17:00
第124回
2018.06.02
第一部 構想発表
中原 真祐子
自我は何からできているのか:ベルクソンにおける精神のなりたち(仮)
本発表は、ベルクソンの思想において自我が、第一の主著『意識に直接与えられたものについての試論』においてどのようにみてとられ、その後、第二の主著『物質と記憶』においてどう展開されていったのかを、跡づけようとするものである。
ベルクソンが『試論』において、「純粋持続」という概念を提示したことはよく知られている。「純粋持続」は、たんに時間のあり方を示す概念ではなく、空間的表象としての自我の手前にある、いわば本来の自我のあり方と切り離しえない概念として導入されている。『試論』において提示される純粋持続としての自我は、質的に変容していく多様体として描きだされている。
他方、『試論』につづく主著である『物質と記憶』において、ひとの精神の働きと切り離しえないものとして論じられているのは、「記憶」である。ひとが経験したできごとはすべての細部を伴って保存されており、私たちの「心理学的な生」は現在の状況に合わせてその過去の記憶を活用しながら展開されていく。そうした『物質と記憶』における精神のあり方と、『試論』における持続としての自我は、どのようにつながり、またどのように離れているのだろうか。本発表では、『試論』における自我がどのようなものか、そのありかたを具体的に確認した上で、『物質と記憶』の記憶理論から導かれる心のあり方との関係を検討する。
【参考文献】
-
アンリ・ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』
-
アンリ・ベルクソン『物質と記憶』
(各種邦訳を参照。)
第二部 発 表
三重野 清顕
シェリングとヘーゲルの差異の検討
シェリングとヘーゲルの思想の差異を考えるうえで、重要な論点のひとつとして、対立物の同一性について、それが対立に相関的なものと考えるか、あるいはそれが対立において汲みつくされず、つねに背後に退くものと考えるかという問題を挙げることができるように思われる。本発表では、対立の根底にある同一性のとらえ方について、思想史的背景に目配りしつつ両者の差異を検討したうえで、現代のシェリング研究の立場から投げかけられたヘーゲル批判への応答の可能性を探ってみたい。
【参考文献】
-
ヘーゲル『大論理学』本質論
-
シェリング『世界世代』