第125回
2018.08.25
13:30~16:50
[※日程を変更いたしました]
第一部 発 表
林 果穂
自由な行為による神の国への漸近――カント『宗教論』第三編の検討
本発表の目的は、主に『宗教論』第三編の検討を通して、カントが、倫理的共同体である「神の国」という理念の実現に対して人間の自由な行為が果たす役割を、どのように捉えていたのかを明らかにすることである。
「私は何を希望することが許されるか」という問いに代表される『宗教論』での宗教と信仰の問題は、最高善と神の理念を通して、「私は何をなすべきか」という問いに代表される『第二批判』での倫理の問題と深くかかわっている。そしてこのことは、カントにとっての地上における神の国の実現と、道徳法則にもとづく行為は、どちらも叡智界の理念に関係づけられていることからも説明されるだろう。本発表では、まず『宗教論』で語られる神の国の内実について簡単に整理した後、その叡智界との関係について論じる。続いて、自由な行為が叡智界の道徳法則とかかわることを確認し、最後に、人間の自由な行為が積極的な意味での叡智界としての神の国を地上に樹立する可能性を持つことを述べたい。
【参考文献】
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Kant, Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft/カント『たんなる理性の限界内の宗教』(カント全集10)、岩波書店、2000
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Kant, Kritik der praktischen Vernunft/カント『実践理性批判-倫理の形而上学の基礎づけ』(熊野純彦訳)、作品社、2013
第二部 発 表
佐々木 雄大
バタイユにおけるエコノミー論の生成
『呪われた部分』第一部『消尽』(1949年)はエコノミーを主題としたバタイユの主著として知られている。しかし、バタイユは1945年の時点でガリマール社に宛てて「私が15年来取り組んできた『呪われた部分』」は「あと1年位で終える」という手紙を書き送っていた。この15年前とはちょうど「松毬の眼」草稿(1927~30年頃)や「消費の概念」(1933年)を執筆していた時期にあたる。ここで予告されている原稿は結局、未完のままに放棄され、歿後、『有用なものの限界』と題して出版されることになる。
では、この間、バタイユのエコノミーをめぐる思考はどのような軌跡をたどり、いかなる論点を孕みながら『消尽』へと集約されていったのだろうか。本発表では、バタイユのエコノミー論の成立過程を跡づけながら、そこに含まれている「有用性」や「消費」「エコノミー」といった諸問題について原理的に考えていきたい。
【参考文献】
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バタイユ『眼球譚 太陽肛門/供犠/松毬の眼』生田耕作訳、二見書房、1971年。
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バタイユ『呪われた部分 有用性の限界』中山元訳、ちくま学芸文庫、2003年。
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バタイユ『呪われた部分 全般経済学試論・蕩尽』酒井健訳、ちくま学芸文庫、2018年。
【日時】
2018.08.25(土)
[※日程を変更いたしました]
13:30~16:50
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【場所】
《会場のご案内》
・湯島地域活動センターは、東京大学本郷キャンパスの隣にある文京区の施設です。
・入り口には「文京総合体育館」と書いてありますが、その建物のなかに地域活動センターがあります。
・「文京総合体育館」の1階正面玄関から入って、(左手にプールを見ながら)突きあたりまで進み、少し左手に折れたところに、「洋室B」があります。
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【来場の手引き】
・都営地下鉄大江戸線・東京メトロ丸の内線
「本郷三丁目」駅より徒歩7分程度。
・東京メトロ千代田線「湯島」駅より徒歩12分程度。
(駅からのルートにつきましては、
お手数ですが地図をご確認ください。)
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※参加無料
※皆様ご自由にご参加ください。
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【関連リンク】