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第121回

2017.10.28

13:30~17:00

第一部 構想発表
 大澤 真生
 レーヴィットの『共同存在の現象学』における自己了解の問題

 本発表はカール・レーヴィット『共同存在の現象学』における「私」の唯一性をめぐる議論をもとに、関係規定的な人間存在が有する自己了解について検討するものである。
 通常、人間は他者との関わりのなかで他者からの評価に晒されながら生きている。評価とはすなわち、他者からの(誤解を含めた)理解の内実であり、人間はこうした他者による意味づけからはけっして逃れることができない。その意味で、レーヴィットは人間を「他者に従属した」存在であるとして、関係規定的に把捉したのである。
 しかし一方で、他者との関係のなかで、他者から理解され尽くされ、あたかも手もとの道具のように十全に理解可能な存在としての「私」は、もはや「私」の人格の唯一性を失っているようにも思われる。人間は、他者の誤解さえも及ばないような、「分かちあえなさ」を誰もが有しており、レーヴィットはこうした「私」の唯一性を「独特の自己了解」として描出した。では、関係規定的な人間存在にあって、他者からの規定を受けずに自己を了解するとはどのような事態であり、また、こうした自己了解が他者と生きる「私」にとっていかなる意義をもつのか。本発表では以上のような問題を扱うこととしたい。 

参考文献

  • カール・レーヴィット『共同存在の現象学』(Das Individuum in der Rolle des Mitmenschen)(熊野純彦訳、2008年)

第二部 発表
 田島 卓
 エレミヤ書「新しい契約」における赦しの問題

 エレミヤ書31章31-34節は通例「新しい契約」という呼び名で知られ、新約聖書における共観福音書やパウロ書簡、『ヘブル人への手紙』などにおける受容を通して、旧約思想と新約思想の結節点となった重要なテクストである。このテクストは、用語法の問題から後代の編集層である申命記史家に手になるものだとされることがあるが、むしろその中核は預言者エレミヤに遡りうることを本発表では考察したい。その際、現代思想における赦し論を参看しながら、このテクストの持つ赦しの思想の意義と射程を探求することを試みたい。おそらく、この哲学的解釈の方法を用いることによって、単に文献学的手法によるだけでは見えてこなかった新たな問題意識と、そこに含まれる緊張関係、およびさらにその緊張関係の先の景色を垣間見ることが可能となるはずである。

【参考文献】

  • 『エレミヤ書』関根清三訳、岩波書店、2002年。

  • 関根清三『旧約聖書と哲学 現代の問いのなかの一神教』、岩波書店、2008年。

【場所】
東京大学本郷キャンパス
赤門総合研究棟 共同研究室 738教室​

【来場の手引き】
・会場はキャンパスマップの赤色で示された建物です。
・東京メトロ本郷三丁目駅・東大前駅から徒歩15分程度。赤門の利用が便利です。

※参加無料
※皆様ご自由にご参加ください。

【関連リンク】

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